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2017/08/02

僕を動かしたのは「宮崎には僕が必要」という自惚れと思い込み

日南市マーケティング専門官 田鹿倫基さん



日南市のマーケティング専門官、田鹿倫基さん。2013年より日南に赴任、日南市の営業マンとしてさまざまな企画をしかけ、日南の名を全国に知らしめてきた立役者です。

田鹿さんが行っている企業誘致により、1年間で11社のベンチャー企業が日南入り。シリコンバレーのIT会社が日南に日本本社を設立するなど、今の日南は明るい話題に事欠きません。田鹿さんたちの元には全国から視察が相次ぎ、その手腕はまちづくりのロールモデルとして数々のメディアに取り上げられています。

そんな田鹿さんを動かすものは、揺るぎない「宮崎愛」!そして今の使命は「日南をドラム缶にすること」!?田鹿さんの原動力、そして見据える日南の未来に迫りました。


京都生まれの滋賀育ち、出身は宮崎!?


▲「辞書で『出身』と調べたら出生地、育ったところ、本籍地、家系のルーツと書いてあります!」と胸を張る田鹿さん


一貫して「宮崎出身」と名乗る田鹿さんですが、実は京都生まれの滋賀育ち。宮崎大学に入学するまで宮崎に住んだことがないというと驚かれるほど、田鹿さんには「宮崎」のイメージが定着しています。

田鹿「僕は本籍地、家系のルーツが宮崎県なので、正真正銘の“宮崎出身”です!両親が宮崎育ちで、幼い頃から僕の心のふるさとはずっと宮崎でした。自分でも明確な理由は分かりません。直感的なものだと思います。」

幼い頃から宮崎を「心のふるさと」としていた田鹿さんは、宮崎大学を卒業後、東京のリクルートに就職。25歳で中国の広告代理店に転職をしました。実はこれらの道は全て、将来宮崎で働くことを見据えた上での選択。東京や海外でスキルを身につけ、成長して宮崎に帰り、宮崎で役立てるための修行でした。


宮崎にスキルを還元するために東京で武者修行


▲東京時代、宮崎出身者の有志で「若者が宮崎にUターンしやすい環境をつくる」活動を行っていた田鹿さん。右下は現日南市長の崎田さん。

まずは成長スピードが早いと評判のリクルートへ就職した田鹿さん。新卒で怒られてばかりの日々だったと言います。もがきながらも学んだことは、日南の仕事のいたるところで生かされています。

田鹿「さまざまな経験を積んだ方が宮崎で生かせるだろうと思い、効率が悪くても人より忙しくても、ほかの人より多くの業界とつながりました。

また、リクルートでは、社員のモチベーションを高めるために入社時、退職時の飲み会一つでも綿密に設計されていました。新しく日南に来た方のアウェイ感を取り除いてあげること、日南を出て行く人を気持ちよく見送ること。市民のパフォーマンスを上げるために必要なノウハウは、リクルートのモデルを応用しています。」


人生で一番つらかった中国時代



リクルート入社から2年。将来宮崎で仕事をするときに、宮崎から距離が近く、経済も大きい中国を無視できない時代がくるだろうと思い、中国の広告代理店へ転職しました。しかし、言葉も文化も違う中国で単身働くことは、並大抵の苦労ではありませんでした。

田鹿「北京勤務のときは、本当にきつかったです。首都ということもあり中国共産党の色が強くて、日本人が受け入れられづらい。そして新規参入の日系企業だったので日本人コミュニティにも入れず、SNSも見られない環境で日本にいる友人の近況も分からない。孤独で心が折れそうでした。」

それでも、郷に入りては郷に従えの精神で、粛々と仕事をこなした田鹿さん。「日本に外国人観光客が増えることは絶対にいいことだ!」という情熱が田鹿さんを支えていました。

そして上海に戻ったのち、新規事業で外国人観光客向けのWEBマーケティングプランを作成。見事に結果を出したのです。


僕を動かしたのは「壮大なる勘違い」



中国勤務から3年、当時史上最年少で日南市長に当選した崎田恭平さんに誘われ、28歳で「マーケティング専門官」として日南に赴任しました。

ずっと夢に見ていた「宮崎で働く」ということ。しかし、田鹿さんの人生設計は「武者修行をして35歳で宮崎に帰る」というものでした。予定よりも7年も早く宮崎に帰ってきた背景には、どのような思いがあったのでしょうか。

田鹿「おこがましいですが、残り数年で修業して僕が成長する量より、地域が衰退していくほうが早いかもしれないと思い直したんです。それであれば、まだまだ未熟な僕だけど、早いうちに宮崎に入った方が宮崎のためになるんじゃないかと思いました。自惚れと思い込み、壮大なる勘違いですね(笑)。」


人口2400万人の上海から5万人の日南へ



こうして、大都市上海から日南へと働く場所を移した田鹿さん。今までのように大多数を相手にしていたリクルートや中国とは、物理的な対人数が変わりました。

田鹿「今までは広告を出して1万人に品物を買ってもらうような世界。もちろんそれもやりがいのある仕事でしたが、今は目の前の市民一人ひとりの生活に密着して働けていることがとても楽しいです。

対人数は少なくなっても、誘致した会社に市民のおじいちゃんの孫がUターンで帰ってきて喜んでいたりと、ダイレクトな反応が見える距離感のバランスがとても心地いいんです。そういう実感が自己充実感に繋がっていると思います。」

日南の仕事はワークライフミックス



宮崎で働くようになって変化がもう一つ。残業なしで要領よく働く中国の労働文化に慣れていた田鹿さんにとって、日本の働き方はカルチャーショックだったといいます。田鹿さんは、中国で学んだ合理的な方式を日南での仕事にどんどん取り入れていきました。

田鹿「決裁者がいない場で会議をしてあとから全て覆ったり、会議の日程を決めるだけで数日かかったり、中国だと10分で決まることがここでは1、2週間かかることもあり驚きました。

各プロジェクトチームでGoogleカレンダーを使って会議日を設定したり、チャットなどのツールを活用するなど、細かい時間ロスをなくすことで、一気に決定スピードをあげることができました。



日南に来て、自身の働くスタイルも変わりました。

田鹿「地方だと貨幣経済がメインではあるものの、信用経済や物々交換経済、自給経済などもあり、貨幣一辺倒じゃないので、会社や仕事が最優先ではないと考えるようになりました。

趣味の自転車に“来週のプレゼンの構成こんな感じにしようかな”って考えながら乗っていたり、ワークライフバランスというよりは、ワークライフミックスのような生活になっています。」


とにかく花火をあげ続けた着任初期



日南で着々と結果を出す田鹿さんですが、はじめは宮崎で働ける喜びよりも不安の方がずっと大きかったといいます。

田鹿「正直あまり自信はなかったです。マーケティングと言っても、自治体のマーケティングは初めてだったし、前例がないから教えてくれる人もいない。行政の仕組みなどを必死に勉強しました。

不安のほうが圧倒的に大きかったですね。今でこそ慣れましたが、当時は会社を辞めて個人事業主になったことも不安の種でした。

はじめは“元気な日南”を装うために、それらしい花火をあげてはニュースになっていましたが、いつまでこれやっていけばいいんだろうと思っていました。ドラム缶の法則に行きつくまでは本当にしんどかったですね。」

「ドラム缶の法則」。これこそが、田鹿さんが日南を持続可能にするために導き出した結論であり、今最も力を入れている施策です。


日南の人口ピラミッドをドラム缶にする



企業誘致や雇用創出が実を結び始めた今、田鹿さんは「日南市の人口ピラミッドの歪みをなくすこと」がこれからの日南において非常に重要だと考えています。

田鹿「世の中では人口が減ることが問題だと思われていますが、待機児童や福祉制度の問題などは、人口バランスが崩れることによって起こっています。すべての年代の人口が同じ人数になり、人口ピラミッドがドラム缶になれば、新しい施設を作る必要もなく財政にも負担をかけずに地域の持続性が高まります。

昨年ようやく、30代の転入が大きく増え、20代の転入も増えたんですよ!非常に良い傾向だと思っています。これからは淡々と人口ピラミッドをドラム缶状に直すための施策を行っていきます。このミッションにたどり着いたとき、ようやく自分が日南で果たすべき使命を見つけられたと思いました。」


どの地方にもマーケティングが必要な時代がくる



東京、中国、そして日南と渡り歩いてきた田鹿さん。世界から日本を見てきたからこそ、地方の可能性を誰よりも信じ、マーケティングという自身の仕事の必要性に確信をもっています。

田鹿「これからは、どの地方にもマーケティングが必要な時代になるべきだと思っています。ゆるキャラや動画など、流行ったものを右に倣えで同じことをするのではなく、自分のまちの強みや特徴を活かしたPRをできること、各自治体がマーケティングの基礎的な知識をもって市政運営をしていくことが、地方が生き残る鍵になります。

買い物や情報など地方の不利な部分なインターネットで解決できることが多いですが、環境や人の良さなど地方のいいところってデジタルコンテンツ化されにくいですよね。デジタル化できないものの価値は相対的に上がっていきます。これからは、豊かな自然、食、体験などの資産を多く持っている地方の時代だと思います。」


卒論題材と同じ職業に就いた運命



最後に、日南に来てよかったですか?という問いに、田鹿さんは即答しました。

田鹿「心の底からよかったと思っています!東京のどこに未練を感じたらいいのか教えて欲しいくらいです(笑)。定期的に東京出張に行くのですが、いつも羽田空港についた瞬間に宮崎に帰りたいなーと思いますよ!

しっかり結果を出してクビにならないように頑張ります!」

田鹿さんの大学時の卒論のテーマは、「企業と自治体の上手な付き合い方」。当時は今の仕事を想像もしていなかったそうですが、田鹿さん自身この偶然に運命を感じているそうです。身も心も日南に順応し貢献している田鹿さん。日南の人口構成がドラム缶になり、ますます飛躍する日が楽しみです!


(text:齋藤めぐみ)


プロフィール
田鹿倫基:1984年生まれ。宮崎大学在学中に上海交通大学に留学。大学を卒業後㈱リクルートに入社し事業開発室に配属されインターネット広告の新規事業の立ち上げを行う。その後中国の広告会社に転職。2013年からは宮崎県日南市のマーケティング専門官として、地域のマーケティング事業を行う。

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