2017/05/02
UMKテレビ宮崎アナウンサー 児玉泰一郎さん
宮崎の2大放送局テレビ宮崎(UMK)の児玉泰一郎アナウンサー。
土曜夕方の情報番組「U-doki」のキャスターとして活躍中です。
宮崎で働けることが嬉しくてたまらないと言う児玉さん。全国進出したいですか?という問いに、ノーと断言します。
児玉「僕はUMKの看板に憧れて入ったので、今地元で働けていることがとても幸せです。宮崎の人にはさらに地元を好きになってもらい、県外の人には宮崎の魅力を発信していくことで宮崎を盛り上げる。それが僕の地元アナウンサーとしてのやりがいと使命です。」
テレビでは知られていない、児玉さんの宮崎愛、仕事愛、そしてUMKへの愛情。
児玉さんにそこまで断言させるものは何なのか、児玉さんのアナウンサーとしての真髄をご紹介します!
高橋巨典アナウンサーは僕のヒーロー
児玉さんが初めてアナウンサーという仕事を意識したのは、小学校5年生のとき。宮崎特有の「読み声文化」がきっかけでした。
児玉「国語の教科書の野球実況の例文を、クラスの前で読み声したんです。「ピッチャー投げました。バッター打ちました。大きい!大きい!」って。みんなに上手って褒められて「アナウンサーになれば?」って言われたのが、全ての始まりです。
もう一つは、UMKアナウンサー高橋巨典さんの存在です。幼い頃から「じゃがじゃが天国(じゃが天)」を毎週見ていました。小学生のときに高千穂に転校したときも、じゃが天で巨典さんが高千穂に行っていたから安心して行けたし、高千穂でもじゃが天で宮崎市内の様子を知れて嬉しかったことを覚えています。
めざましテレビに巨典さんが出たときには、ローカルにいながら全国トップクラスのことができるんだなととても驚き、ますますアナウンサーを目指す契機になりました。巨典さんは子どもの頃からずっと僕のヒーローでしたね。
だからアナウンサーになりたいというのもあるけれど、UMKで働きたい!巨典さんに会いたい!じゃが天に出たい!という想いが大きかったです。」
ノイローゼになるほど悩んで成長した報道記者時代
アナウンサーへの憧れを抱き続け、大学時代にはUMKでアルバイトをしながらアナウンススクールに通学、UMKは落ちたものの、晴れて大分朝日放送のアナウンサーになりました。ところが夢の仕事に就けた先には、思わぬ試練が待ち構えていました。
児玉「どうしても宮崎弁が抜けなかったんです。標準語が話せないアナウンサーなんてアナウンサーじゃないって、最初の一年はテレビに出させてもらえませんでした。ノイローゼになるほど悩んで、親から電話がきても「宮崎弁喋るのやめてよ!」と突っかかっていました。」
その間は、標準語の特訓をしながら報道記者をしました。交通事故や事件の現場だから相手は泣いている方ばかり。遺体を見ることもあったし、ご遺族に水をかけられたことも。一から勉強して、原稿も書いて、自分が夢見ていたじゃが天のような職場とのギャップが大きすぎて、どんどん暗くなっていきました。」
信頼があればテレビで人の命を救えるかもしれない
児玉「でもこのときの経験がすごく良かった。被害者への配慮、原稿の書き方、情報を取る大変さなどを身をもって体験したから、アナウンサーとして宮崎で仕事するときも、事件の裏で泣いている被害者や汗を流した記者さんたちのことを考えて原稿を読めるようになりました。
顔が知られて信頼されている人が、緊急地震速報で“揺れがきます、机の下に隠れてください”と言うと重みや伝わる力が違うはずです。そういう意味では、僕がもっと知名度と信頼度を上げることで、テレビで人の命を救えるかもしれない。報道にはそういう役割もあると学びました。」
宮崎弁を克服し、アナウンサーとしてテレビに出られるようになった児玉さん。でもうまくいけばいくほど「これが宮崎だったらどんなにいいだろう」と地元への想いが募り、宮崎で働きたいという思いを抑えきれず、UMKを受け直しました。
小学校からの念願が叶い、ついにUMKのアナウンサーに!
16年越しの夢が叶い、ついに「地元のアナウンサー」になった児玉さんは、宮崎で働ける喜びを日々噛み締めています。
児玉さん「アナウンサーという仕事を通して、宮崎について色々なことを知れて、地域の人と交流できて、自分自身が宮崎をどんどん好きになれます。宮崎で仕事をすることが総じて楽しく、やっぱり宮崎でよかったなと日々思っています。
宮崎県内の全市町村に取材に行っているので、そのうち県民全員と顔見知りになれるかもって思いながら仕事をすると楽しいです。
地元の人にインタビューをするときは、宮崎弁でつっこむとすぐに仲良くなれます。UMKで英語を話せるよりも宮崎弁の方が役に立つんです!それは宮崎育ちの僕だから活かせることで、地元でよかったと思う部分です。」
憧れが現実になったとき、見えた景色はどのようなものだったのでしょうか。
児玉「アルバイト時代は、アナウンサーの仕事がただただ楽しそうで憧れが募るばかりでした。宮崎の色々な場所に取材に行って、地元の人と楽しく喋って夜は宴会して、こんな楽しい仕事ないなって。
でも入ってみたら、取材一つにしても下見取材や企画、打合せなど驚くほどたくさんのスタッフが手間ひまかけて準備をしていました。取材には「伝える」使命があり、夜は宴会どころか説教や反省会、自省で全然楽しめない。アルバイトとは責任の重さが違うから当然ですよね。」
児玉「おかげで見える世界は一気に広がりました。何のために、誰のためにその場所に出向き取材をするのか、何を伝えなくてはいけないのか、深く見て考えて取材ができるようになったし、行動には必ず理由があるのだと学びました。
語彙力や技術を磨くため、家ではずっとテレビの実況やナレーションを見て学んでいます。僕たちはテレビをつければ教科書があるんです。上手い人がいたらすぐにネット検索。年下だったら焦ります!」
4月には、巨典さんが出ていた「めざましテレビ」で全国デビューしました。アナウンサーとしての階段を一つ登ったときに見えた景色は、今までよりずっと広いものだったと言います。
児玉「小林市の小さい温泉を全国にPRして、まちの人にありがとうと感謝され、ディレクターに“これからの宮崎を盛り上げようね”と言われたとき、僕もようやく宮崎に貢献できるアナウンサーになれたのかなと、胸が熱くなりました。宮崎を外に発信できる喜びを実感しました。」
言いたいことを「誰も傷つかない言葉」に瞬時に変換できるかが勝負
アナウンサーと言えども会社員。ニュース、バラエティ、実況、災害中継、何でもこなすのがローカルアナウンサーの仕事です。ダンスでも変装でも、求められたことには全力投球で応えます。
児玉「キー局は仕事が細分化されますが、ローカル局では全てをこなせなければいけません。報道では宮崎の現実を知ってもらい、考えてもらう。バラエティは宮崎の魅力を伝え、好きになってもらう。両方に面白さがあります。
スポーツ実況は大変です。ルールを勉強してデータをまとめ、戦術を覚えてやっとチームの取材ができます。あらゆるデータを完璧に頭に入れないとしゃべれない。試合前には家中の壁に選手情報を貼り、24時間フルで情報を叩き込んでいます。」
児玉「言葉を口にする前に、頭の中で「この言葉を言ったら傷つく人がいないか」というフィルターにかけています。そのフィルターにかかったとき、瞬時に別の適切な言葉が出るか出ないかが、アナウンサーとしての力量だと思います。
新人の頃はフィルターの目が粗くてよく失敗していました。経験を積むごとに、誰が聞いても納得できるさらさらの言葉が出るようになってくる。自分の物差しや感覚で話すのは怖いので、画面の前にいる一人ひとりのことを思うようにしています。」
「児玉アナを通して宮崎を好きになりました」と言われることがゴール
最後に、児玉さんが目指すアナウンサー像について伺いました。
児玉「テレビで僕の顔を見ると宮崎を思い出してもらえるようなアナウンサーになりたいです。「児玉アナを通して宮崎を好きになりました」と言われることが僕のゴール!ちなみにまだ一度も言われたことはありません(笑)
僕の人生でUMKアナウンサー以外の仕事は考えられません。“転職”できないから“天職”なんです!」
おあとがよろしいようで!
(text:齋藤めぐみ)
プロフィール
児玉泰一郎:1984年生まれ、宮崎市出身。
2007年大分朝日放送アナウンサー、2011年テレビ宮崎に転職。UMK自社制作番組マッポスのメインMCを経て、現在は土曜18時U−dokiキャスターを担当。
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